離婚に向けて選んだ仕事|プロローグ⑥

プロローグ

ふく子が工場の仕事を選んだ理由

夫への怒りが引き金となり、ふく子は動き出した

前回、夫の言動に激怒したふく子は、自分がどれほど我慢してきたのかを痛感した。

今まで自分を二の次にして生きてきたことに気づき、「自分の人生を取り戻したい」という強い想いが湧き上がった。

こうなるとふく子の行動力は半端ない。

追い込まれてから本領を発揮するタイプかもしれない。

基本、マイペースに観られる傾向はあった。

なので、両親からは何も考えていないような子に観えていたと思う。

でも実際には本人なりに考えを張り巡らせている。

さて、もう気づいてしまったから、我慢が効かなくなる。

どうすればいいのか?ものすごく考えた。

あの夫に私の今後の時間は渡さないとは決めたのの、離婚には乗り越えなければならない課題があった


離婚の障害|母の介護と子どもの生活

ふく子が抱えていた問題は 2つ

母親の生活環境
子どもたちの教育と住環境

子どもたちは今の学校を気に入っていた。

住んでいる地域の環境も良く、転校を望んではいなかった。

さらに、母親の精神科の病院を変えるのも難しい。

ふく子にとっても、母にとっても都合が良かった。

母は新しい何かに適応するのが難しいところがあった。

適応力はないわけではない。

今までと違うことが多いとそれを説明しなければならない役割がふく子にあった。

それがふく子には面倒な作業だった。理解させれば大丈夫。

だが、それは大変な作業にふく子には感じていた。

だが、ふく子は 「離婚する と決めた。決めたからにはやりとげたいのである。


3年計画の決断|仕事を探す条件とは?

「すぐに家を出られたらどれだけ楽か…」
そう思ったが、子どもと母親の生活を考えると 計画的に動く必要があった。

そこで、ふく子は 3年計画を立てた。

「3年あれば何かしらの目途が立つはずだ。」

この目途というのは主に母親の病状だった。

母は高齢で、心臓に欠陥を持っていた。この3年でどのような介護状態になるのかの目途だった。

これも急展開中の急展開を後に経験することになる。

その時は、まずは お金を稼ぐ手段を確保すること がふく子にとっては最優先だった。


仕事探しの条件|家庭と両立できる働き方

求人を見て回ったが、どれも 「今の生活と両立できるか?」 という問題があった。

子どもの学校行事には参加したい
帰宅した子どもに「おかえり」と言いたい
母の介護も必要な時がある

ふく子はふと、夜勤の仕事がいいかもしれないと思いつく。

ふく子はどちらかというと朝が弱い。夜型傾向があった。

そんな時、高校生の頃に聞いた「食品工場の夜勤バイト」の話 を思い出す。

「工場なら夜勤の仕事があるかもしれない。」
「夜勤なら、昼間は家にいて子どもの面倒を見られる。」

ふく子は すぐに行動を開始した。


食品工場での仕事|夜勤を選んだ理由

すぐに食品工場の夜勤で働き始めた ふく子。

夫は驚いた。

「自分のせいで妻が働くことになった」と思っていたようだった。

後に夫はふく子が3年計画で離婚を考えて実行していることを話されることにはなる。

なぜなら、「俺の稼ぎが少ないのに働かせて申し訳ない」という夫に、事実を話してしまうからなのであるが、それはふく子が嘘をつけない体質であるがゆえに起こってしまう。

本当は3年後に弁護士を入れる予定であった。

事実を話してしまうのも、夫の反乱にはどこか理解しているところがあったからだろう。

だとしてもふく子の決断は覆せない。ふく子の精いっぱいの誠実さであった。

その時は、夫にそれを理解させるつもりはなかった。

時間をかけて、静かに自分の道を進もう そう決めた。

夜勤は前途で記載したとおり、子どもや母が寝ている時間に働ける、と同時に

夫と入れ違いになるというメリットがふく子にはあった。

昼はふく子が家庭を観る、夜は夫が家庭を観るといった具合だ。

子どもには仕事をしているふく子が良く分からなかっただろう。

寝る時も起きるときもふく子は家にいるのだから。

今は子どももそれなりに成長し、理解していると思っている。

工場での仕事は、始めはまるで機械の一部になったような気分になった。

人間を辞めたような、機械ができないことを補佐する仕事。

年末だったこともあり、時給が良かった。しかも深夜帯、深夜手当がついた。

週に4日、2か月で税金面を考えなければ44万ぐらい稼げたと思う。

それは短期契約だからそうなっただけ。

その2か月の間に次の手を考えようと思っていた。

けど、工場を選んだ。 

夜勤でやれる仕事は警備か介護ぐらいだったからだ。

2か月の間に、ふく子は工場ならではの仕事の面白さを見出していくことになる。


更年期の影響|体調の変化との戦い

ふく子はその当時 更年期真っ只中だった。

水を飲んでも太る
糖質制限やマラソンをしても体重が落ちない
寝たり、美味しいものを食べた後に突然2kgストンと減る

この体調の変化に、ふく子は「自律神経の乱れでは?」と後になって気づくことになる。

そのような不安定な状態でもふく子は客観的に自分を観察しているようなところがあり、冷静に病んでいたかもしれない。

40代後半というのは、更年期の体変化や、親の介護問題など、別の要素の問題がいっぺんにやってくることもあって、どこに焦点があっているかで、捉え方がかわるのではないかと今では思う。

ふく子の場合は複数のものがいっぺんに来たことにより、自分のキャパを越えてしまったのかもしれない。

この更年期の乱れは、母の精神的病の病状の悪化と共にやってきた。

ふく子の初期症状は「寝れない」「涙がでる」「絶望感」だった。希望が見えない。

体のサインとしては半年間、前頭葉が鉛のように重かった。時にハイテンションな自分がいる。

その間、通信大学に通っている期間も入っている。

その鉛のような鈍痛は一生の付き合いなのだと思っていた。

だが、ある方法によってそれは嘘のようになくなった。

母に同情することを辞めたのである。 

母を嫌いな自分を認めた。関わりたくない自分を認めた。

勝手にしろと、私は私の人生を歩むと決めた。

そして笑い出した。 その次の日から頭の重さがなくなっていることにすごく驚いた。

工場の仕事は体を動かす。 ものすごく慣れるまでは疲れた。

疲れたことでよく寝れた。 頭と体と心のバランスがとれていなかったのだろう。

深夜で働いているので、体調面に気を付けた。

作業中に喉が渇かないように、塩分に気をつけた。

疲れにくいようにするために、食べる物に気を使った。

体重はあっさり落ちた。 ふく子は自慢じゃないが50代に観られない。

深夜に働いているのに、意外なことに健康的になっていった。


工場での仕事|適職ではないのに馴染んだ理由

ふく子は接客業が自分に向いているという認識があった。

人を喜ばせることが好き。それゆえに、自分が納得していないものをセールスできないという欠点がある。

これは自分がやっているカラー講座でも同じジレンマと闘うことになる。

人を喜ばせることと、自分が納得することは別次元の話だからである。

工場の作業にはそういった対人関係の面倒なことはない。

人との交流に喜びがある人には向いていないだろう。

話す暇がない。作業に追われているからだ。

工場での仕事は流れ作業で立ち仕事。

体力が必要で、スピードについていく必要があった。

立ち仕事はつらいかもしれないとう予想があったが、以外にもできた。

今は座り仕事の方がつらく感じるかもしれない。

ふく子には 20代の頃、アホみたいに体を動かしていた時期がある。

・ホノルルマラソン完走
・富士登山
・格闘技の経験
・ 2泊3日の山伏修行 など

もともと 「追い込むことが好き」な傾向があった ふく子には、単純作業でありながらも、ペースを維持しなければならない仕事 は相性が良かったのかもしれない。

かつ、持ち場を任され、一人の単独作業に思えてもライン作業である。

一人の仕事の仕方が、次の手に影響を出すような流れであるために、「一定の作業状態を保つ」というのは関わる人間のレベルを「一定に保つ」必要がある。

機械も時に一定ではない、トラブルが発生する。

そこにどう対処していくか?という解決行動を被害を最小限に抑えるために判断してとらないとならない。

臨機応変さを求められるので、そこに対応できる能力を身に着けていく楽しさがふく子にはあった。

それに関しては以外だった。工場の仕事はそういうものではないと考えていたからだ。

あるいは、そこに楽しさを見出したふく子が自分を分かっていなかっただけかもしれない。


ふく子の仕事観|「代えのきかない存在になりたい」

ふく子はこれまで、目立ちたい、褒められたいと思って仕事をしたことはない。

でも、「ふく子でなければ」と思われる仕事がしたい という願望はあった。

「私らしさ」を認めてくれる場所かもしれない。

ただ、基本、一生懸命に仕事をするので、自然とそうなる傾向はあった。

嫌われることはなかった。

ただし、そういった存在を妬ましく思う人に出会うことは多かった。

時には、新しく入り込んだふく子が、それまでのリズムを崩すことをしてしまうこともあったと思う。

気づいてしまうゆえに、今までやってないことをやりだす。仕事が増える、やらなきゃならないと考えだす人がいる。

人は知らない間に環境や人に影響を与えていたりするものである。

ふく子には何となくその自覚はあった。

それを伝えてくる人には、真向から向き合った。

だいたい、それを伝えてくる人間には同じ特徴があった。

「みんなそう思っている」

ふく子はこの言葉を使ってくる人が好きではなかった。

自分の言葉で語れない人の言葉に耳を傾けない。

「ふく子さんがいてくれる。今日は助かった。ありがとう」

この言葉を信じている。

そう思われる人材になりたいと、どの職場にいってもふく子なりに普通に仕事をしていた。

認められたい人間にだけ認めてもらいたいと。

そういうタイプの人間だった。今もそうである。

この仕事を 「収入の土台」にしながら、次のステップをふく子は考える ことにした。


そして、3年が経過した。

ふく子が決めた「3年計画」は、確実に前に進んでいた。
その間に、さまざまなことが動き出していた。


次回:心のままに行動した道のりに新たな考え|プロローグ⑦

3年の間に、ふく子は何を準備したのか?
夫との関係はどうなったのか?

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